呑んだくれ改めレッツゴー痛風日記
2006-09-25 やさぐれ入門
_ やさぐれ入門
ぴっぴーぷぷーぴっぴっぴぷーぷーぴっぴーぷぷーぴっぴっぴぷーぷーぴっぴーぷぷーぴっぴっぴぷーぷーぴぴぴぴぴぴぴ。やさぐーれ。お、れ!私、前向きなの!後戻りしないの!ぴっぴーぷぷーぴっぴっぴぷーぷーぴっぴーぷぷーぴっ。やさぐーれ!さて、普段後ろ向きな私が何故ラテンのリズムで前向きに歌っているかというと、前向きに積極的姿勢でやさぐれようと思ったからであるが、やさぐれるに至った理由は数日前に遡るのであった。ぴっぴーぷぷーぴっ。
私は夜になると困った酔っ払いになりさがってしまうのであるが、実は昼間はIT業界でぎゅんぎゅんに働くバリバリのサラリーマンなのであるが、どうにも最近仕事がうまくいかないのである。この業界に入って6年、一生懸命なふりをして働いてきて、それなりに仕事をこなしてきたわけだが、どうにも最近うまくいかない、それどころかむしろまずくいってしまっている場合もあり、そこそこ自信を持って真面目に仕事をしてきたのだが、その自信はひょっとすると過信かつ盲信であり、ひるがえって冷静に分析すると自分はショボイ人間なのではないかしらんと、ぬらぬらと考えていたのであった。ぷぷーぴっ。しかしそんなことで意気消沈している場合ではなく、むしろバネにして頑張ろうと希望に燃えていたのであるが、そんな私を嘲笑うかのように次から次へと事件が巻き起こるのであった。事件は冷蔵庫から発生した。仕事がうまくいかないのは野菜を食べていないからだと推理した私は野菜サラダなるものを拵えようとしたわけだが、冷蔵庫に大事にしまってあったキャベツ、人参、ピーマンといった野菜達は全て異臭を放っており、勢いをくじかれた私は食欲のままに魚でも焼いてやろうかしらと魚を探してみると、なんと、あろうことか魚までもが腐ってしまっていたのだ。不幸中の幸いか、お頭のない魚であったため、腐った魚の目で見つめられることはなかったが、すっかりしょげてしまった私はダイエット用のお茶を拵えようと考え、ダイエット茶のティーバァッグを取りだした。ティーバァッグは二つが一つにまとまっており、その境界線にはミシン目の切れ目がいれてあるので、ははぁ、さてはこのミシン目に沿って二つにちぎって使うのだなと意気揚々とティーバァッグをちぎると私の手はミシン目を無視してティーバァッグの袋の部分をざっくりとちぎってしまい、ダイエット茶の葉が部屋中に散乱してしまう様をスローモーションのように見つめた私は、心の底から自分のことを軽蔑し、またそんな自分の狭量さを激しく憎み、わかりやすく一言でいうと、もう世の中の全てのことがどうでもよくなってしまったのだった。そして、私はやさぐれてみようと決心したのだった。私、前向きなの!後戻りはしないの!
やさぐれることを決心した私であったが、はて、何をすればやさぐれられるのか、さっぱり検討もつかない。とりあえず、やさぐれる、という言葉から連想することを考えてみると、投げやり、自暴自棄、排他的、と、抽象的な言葉しか浮ばず、そもそも抽象というのは世の中の具体的な事物、事象から特徴となるものを抽出した上で汎化した名前を与えることにより、複雑で不可思議な世の中をさもわかったかのように見せかけるための傲慢かつ無謀な手法であり、そのような言葉をいくら駆使したところで物事のディテイルはわからないのである。おそらく抽象的思考をするのは人類だけだと私は考えており、それは人類が言語というツールを獲得したことによるところが大きいのではないだろうか。言語の使用によって、物や動作に記号を与えるだけではなく、感情や考えといった形ないものについても表現することができるようになった人類はそのツールを最大限に活用して個人を宇宙の中の一つの実存として捉え、宇宙を個人の中の空間として認識することができ、まさにその認識によって文明は発達したのであるが、抽象概念が拡大すると同時にそれは未来についてより明確に予測することも可能とし、それは死への恐れを人類にもたらしたのであった。必ず訪れるその概念から逃れるために、救いをもたらす概念が埋みだされ、それは長きにわたって人類を絶望から救ってきたが、しかし、概念の違いは紛争の火種となり、21世紀の今になっても争いは絶えないのである。とすると、抽象思考の獲得は人類最大の悲劇なのではないだろうか、と、全然違うことを考えてしまった。いかん、やさぐれなければ!。まずはやさぐれ入門するために「これさえできれば立派なやさぐれ」というわかりやすい行動を取るべきである。しかし、何をすればいいのだろうか。やさぐーれ!
答えの出ない思考に糞詰まってしまった私はぬらぬらとしながらコンビニエンスストアに宅急便を出しに行ったのだが、そこでビールを発見した私は、おほほ、ビールでも飲んでこましたろ、とひらめいてさっそくビールを手にとろうとしたのであるが、いや、ここはあえてビールよりも不味くて安い発泡酒という飲料をチョイスすることにより、その自虐的・自暴自棄的な行動により、一層やさぐれられるのではないだろうかと考え、財布の中から千円札を抜きとりその金額で買えるだけの発泡酒を購入してほくほくと帰宅したのであった。おほほん。発泡酒を一本飲むと頭蓋のてっぺんあたりが痺れてきて、やさぐれ気分が増してきた。いい感じである。気持ちのよくなってきた私は何かBGMをかけようと思ったのだが、やさぐれ気分を盛り上げるためにはJPOPなどというチャラチャラした音楽を聴くわけにはいかず、やはり反体制なパンクという音楽を聴くべきかと考えたが、あいにく私の家にはパンクのCDがなかったため、何を思ったか、ジョン・コルトレーンの「アセンション」を聴きながら立て続けに発泡酒を飲んだのであった。ぷぴっ。
しかし、2本目の発泡酒を空けようとした時に異変が起こったのであった。発泡酒が飲めなくなったのである。ややや、これはどうしたことか、と観察してみると、どうやら発泡酒に含まれる炭酸ガスによって私の胃が膨張してしまい、これ以上の発泡酒の摂取を困難にしているようだ。しかし、せっかく入門しかけたやさぐれであるのにこんなことで挫折してはいけない。私は鉄のような意志で苦しみながらも発泡酒を全て飲み干したのであった。私、前向きなの!後戻りはしないの!げぷっ。
いつのまにやら気絶してしまったようで、発泡酒の缶が散乱した部屋の中で目を覚ましたのだが、頭が鉛のように重く、むむむ、これは宿酔いだぞ、と後悔しそうになったが、この気持ち悪さもやさぐれ修行の一つだと自らを奮いたたせて起き上がると、近くの小学校から「カントリー・ロード」のリコーダー合奏が聞こえてきた。ふいをつかれて感動しそうになるが、やさぐれ入門中の身としては、ここで感動してはいけない。むしろ、「朝っぱらからガキどもがうるさくしやがって。一度ぎゃふんとこましたろ」と悪態をつき、さらにやさぐれ上級生にもなれば、朝の校舎窓ガラス壊してまわらなければいけないのである。やさぐれの道は険しい。などと考えていると、次は「翼をください」の合唱が聞こえてきた。やさぐれの糸がぷつんと切れて、自分の情けなさに涙がこぼれた。やさぐれ断念。
うーむ、やさぐれの道、いと嶮しかりけり・・・。<br>徐々にラテンの合いの手がへなちょこになってきていていい感じだと思ったのに。<br>やさぐれ道は一日にして成らずです。ホームレスのおっちゃんも、だてにああいう格好しているのではありません。<br>やさぐれに関しては私、色々と語れるわよ。<br>何度か極限までいったから。だけど哀しいかな、その度誰かが手をさし伸ばしてくれるわけでございます。ぷっぷーぷぷーぴっ♪