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呑んだくれ改めレッツゴー痛風日記


2004-09-10

_ 10:30出社

やっぱり週末はおきれない。

Tags: work

_ そういえば起きてからまったく食べてない。

ということに22:00くらいに気がつく。

カラムーチョは食べたけどね。

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_ 今日の夕食

久しぶりにホイコーロー作ってみた。にんにくがなかったのでイマイチ。

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_ アフターダーク

村上春樹。例によって発売日前日に購入してすぐに読み終わってしまった。

で、だいぶ感想なのですが、だいぶ微妙。自意識と自己愛と他者との隔絶からくる苦しみを別の世界に閉じ込められている。それは誰からも気づかれない。その心の闇はすぐそこに日常的にひそんでいる。といった主題はいかにも村上春樹ちっくなのですが。問題は本作の文体。

村上春樹といえば、「ぼく」がぼくの感受性・ぼくの生き方を都会的でハイセンスな言い回しで語る一人称なイメージが強いですよね。その中で「やれやれ」といった名言も飛び出していたり。それが、「神の子どもたちはみな踊る」で三人称を手に入れ、「海辺のカフカ」では一人称と三人称の物語が同時並行させたりしてました。

でだ。今回の語り手は「私たち」です。読者を語り手と同じ視点で見せる文体。そこで丁寧にも「私たちのカメラは」などといった表現で視点(物理的にも文学的にも)を、傍観者(あるいは他者という表現がいいのだろうか)に固定する。登場人物の主観や感情については会話の中で説明はされるが、語り手はあくまで客観的事実のみを読者に提示する。(もちろん、客観的事実と現実とはイコールではなくて、現実には起こりえないことをある種のメタファーとして語るのはアリ。)

小説が映画などと決定的に違うのは登場人物の心情や考えやあるいは事実の前後関係などを文章によって説明できるということだと思っていました。映画なんかだと、それらは台詞や人物の表情などで観客が読み取らなければいけないところなんですが。逆に小説の方が映画よりも「読み手にこのように読み取ってほしい」ということを強制しやすいですよね。その意味では。で、そのように考えると、アフターダークでの語り手「私たち」の採用は映画的な視点で小説を書いたということなんでしょうか。映画などで見ることのできないこと、心情や推測や印象は語り手から直接語られることは無い。それは登場人物の会話の中で説明されている。人物や景色の描写もあくまで外見的なものにとどまっており、そこから受けるイメージ、しぐさから読み取れるその人の気持ちなどを「私たち」は語らない。

人によっては「実験的小説」というかもしれない。あるいは、村上春樹訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」に登場する「YOU」の存在を引き合いにだし、そこから難しい文学的評論をする人もいるかもしれない。(ちなみに、このYOUは英語の文法的制約から発生する意味のないYOUであり、「君」と訳すのは誤訳であるというのが定説であるが、村上春樹はあえて誤訳しているという説がある。じゃあ、野崎訳はどうなんだ、と突っ込みも入れたくなったり。このYOUについてはen-taxiに連載中の「アメリカ」で坪内裕三氏が考察している。)で、そんな文学的評論をすることにはあまり興味はなくて、直接の感想を述べさせてもらうと、

面白くない。

以上。

Tags: 読書
本日のツッコミ(全3件) [ツッコミを入れる]
_ コロ犬 (2004-09-14 00:46)

面白い!まだ3分の2しか読んでないので。「私たち」の視線から何時の間にか登場人物の会話へ展開する辺りの微妙な感覚は何?歳をとった春樹の一作かな?

_ 肉の木 (2004-09-20 02:26)

む。面白いですか。僕はやっぱりどうにも他人行儀的な感じを受けてしまうのですが。。。

_ ケイ (2004-09-30 18:37)

良かった!!同じ感想の人がいて…。ハァ〜?って感じまくり。


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